直感と理性のあいだ
私は1997年5月、モンドマルサン市によって企画された日本の環境彫刻展の際に、平川滋子という作家を知った。そのとき私を強烈に印象付けたのは、ミ
ドゥーズ川の合
流地点という町の地形的要地に作られた、彼女の作品の明晰さと精度の高さである。
川の合流地点の上流に、アブロボワールと呼ばれる泉水がある。平川滋子は泉水の中に、淡緑色の樹脂の輪をつけた木材を杭のように並べ立てて配置した。ま
た一方、川に掛けられた橋の下流には、土や丸太や木の切り株を、土手の上に5つの楕円形のくぼみをつけて根を下に向け、あるいは根先を天に向けて詰め込
み、連携させて一条の曲がりくねった道筋を描きだした。
この5つの楕円の道筋は、「省略法」(ellipse=楕円)という手法にそって、荒れるがままになっていた土手に威
厳を回復させたばかりでなく、痛烈な実存的存在の弁証法的サインを明示し、土や木の根の繊細さで充塞されたものたちを通して、空虚と充塞へ、つまり生と死
の永遠の繰
り返しへと、われわれの注意を喚起するものであった。
私が記憶しているのは、よって平川滋子のランド・アートにみる重要な意味をもつこの力である。そして1998年2月、ショワズィ・ル・ロワでその仕事の
日常的なより親しみやすい側面の近作を見たとき、私の期待は全く裏切られなかった。私はその平面と立体の中にその大地からくる断固とした切り込みの鋭利な
明晰さと厳格さを再び見いだした。圧縮ウッド・ファイバーを貼り合わせた立体は、人の腰を折ったようなカーブの中に蛇行する溝を流れる滝の落水のうねった
線を思い起こさせる。地面に置かれた作品も、ファイバー・ボードの明るいベージュ色のトーンの中に実存的なダイナミズムの痕跡を明示し、波打った表面は楕
円のもつなめらかさを提起してみせた。洗浄剤の酸によって浸食され、色を落とされた布が、不定型のパネルに貼られた平川滋子の平面は、溶解した核を持つア
メーバ形状あるいは、生物学的クローン繁殖を準備するイネ科の顕花植物のような植物の子葉を想起させる。
その構想においてモン・ド・マルサンの環境彫刻制作以前のこれら室内の作品は、作家の浸透性のある感性を証言している。作品はそれぞれが、直観と理性の
正確なハーモニーの中で進展するア-ティストの創造思考に結びついた、自由空間のマケットのようなものを形成している。平川滋子の空間創造力は、環境生態
学
の鋭い感覚が存在の変転についての絶え間ない省察と調和するような一つの深い霊感と広範なヴィジョンによって活力を与えられているのである。この作家がそ
の概念領域を日常掘り下げ、あるいは堅固なものにしていくのは、この現実と精神の二項においてである。素晴らしい働き蟻のような粘り強さのうちから生まれ
る
精度の高さを見せた真の仕事である。
謙虚な作家を恐縮させてしまうかもしれないが、私は平川滋子に強い大望を抱いている。つまりランド・アートの近代的物質主義と、モノ派の生んだ「ネオ・
ゼ
ン」のミニマリズムとの境界にこそ、作家はそれが作家独自のものである真に独創的な場を確立してゆかなければならない。私は締めくくりに送るこの願いが、
こ
の私の紹介文に真の意味を与えてくれることと思う。
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