Shigeko Hirakawa

December 29, 2010

現代文化と国について

数日前にこのブログで、フランスは外国人に永住権も与えないし、法的に職業規制があったりで思った職業にも就けない、という話をした。
「私たちは芸術家でよかったわね。芸術家にはだれだって自由になれるのだから」と同じ建物に住むスエーデン人が言ったことがあった。フランスの外国人は自由に職業を選ぶことができないという硬派のフランス社会についてはなしをしている最中に飛び出した意見だったが、このときの私はうーんとうなったばかりでうまい返事は出てこなかった。国から何の制限もない芸術家職は、そんなフランス社会の厳しいプロテクショニズムとは関係がない、とこのスエーデン人は言いたかったらしい。しかし、本当にそうだろうか。周りの人々が汲々として決められた制限のなかで生きているのに、そうした色に染められた社会の見識から免れて芸術家だけが自由を享受できる、というのはむしのいいはなしではないだろうか。

20年近く前フランスは、現代文化において「政府メセナ」のモデルとして日本でも盛んに紹介された。私企業のメセナが多く立ち上がったアメリカや日本と違い、フランスは政府が現代文化を援助する大きな体制を作り上げたからだ。資本主義の米日が「民」ならば、社会主義よりのフランスは「官」、として国のあり方を対立させてみてもいいかもしれない。フランスの企業はその大多数が国が株主で「公社」であったから、もともと私企業のメセナが育つ土壌も当時は僅少だった。そうした国の経済のありかた同様、現代文化もフランスは政府が指揮を取って政治のうえで采配しようとし、1981年、フランス文化省を復活させた。
この文化省に、現代アートを支援する「造形芸術庁」が発足して現代芸術のメセナ的な仕事を始めることになるのである。その仕事は実に緊密で、まずは「現代アート」の定義からスタートする。国の言う現代アートとは、狭義の流行のアートのことを指すのではなく、現代生きて仕事をしている作家が生み出すアートすべてを指す。したがって、すべての生きて仕事をしているアーティストとそのアートを対象にしている。生きているかぎり芸術家は、他の職業者同様、税金を払わなければならず社会保障も受けなければならない。そうした社会の一員としての義務が果たせるように国がメセナ的役割をもってサポートし、実利的な仕事を創造してアーティストにリンクをする役割を自分に課した。(公団住宅の枠内で芸術家用アトリエ建設、作品買い上げと作品公庫の設置、芸術活動への援助金制度、カタログ援助、展覧会援助、コマーシャルギャラリーとは質の異なるアートの発表を目的とした展覧会施設開設と相互リンク、公共建造物に作品を入れる法律〈1%〉、情報センターなどの芸術活動に必要なネットワークと施設を設ける、等々。)
国の現代芸術政策は、なかば芸術家の生活に結びついた福祉的な性質を大きく含みつつ、芸術育成をめざした組織的な構造が徐々にまた全国レベルで作り上げられていったのだ。

さて、現代芸術のリーダーがフランスの「国」であることは、何を意味するだろうか。現代から将来に向けて創られる現代文化も、ここでは政治の一環となっているわけだから、文化再興の理論の底流には、フランスのプロテクショニズムが大いに働いている。
1960年に初めてできた文化省は、初の文化大臣アンドレ・マルローの省内スタッフによってその真意が明らかにされている。「将来、世界が望むようにフランスの精神的尊厳を回復し、文化の(世界における)指導的立場をとりもどすことを念頭に、(戦後退廃しておざなりにされ、すっかり他の国に追い越されてしまった)フランス文化を建て直す」ことを大目的とすると。そうして1981年の文化省の再興は、マルローの意思をそっくり引き継ぐ作業の実現から始まっていることを指摘しなくてはならないだろう。

外から来た文化人たちは私を含め、フランスから跳ね返されるような勢いをしばしば感ぜずにはいられなかったのは、それだけ当時、この国の現代文化政策がエネルギーを持っていたことを意味するのだと思う。このフランスの勢いのおかげで、文化という大きなテーマについて、フランスの長い間の論議を認識する機会を何度も得ることができた。また、自分がいるフランスからフランスの思想をもってはじき出されることで、自分はそれではいったいどの文化に向かって作家活動をしているのだろうか、という疑問につきまとわれるようになってしまっている。
フランスに来なければ、この国が長いあいだ熟成してきた「文化」への論理的アプローチのなかに浸って、文化とは何かという大命題に接する機会はおそらくそうそう無かっただろうから、フランスには大いに感謝をしているが、一方で、この国で活動を始めてすでに27年たったいまも、自分がどの文化に向かって制作を続けているのかという疑問は疑問のまま、将来もきっと解決することはないだろうと思っている。(S.H.)

October 30, 2010

芸術省のために (1956年共和国政府覚書から)2

1956年12月の共和国政府覚書第4号に掲載されたロベール・ブリシェの文章「芸術省のために」。(翻訳: S.H.)

ここに挙げるのは、ジロドゥーが都市の推進者としてこの件について述べたものである。
「もし、都市計画において、国民が現代生活のリズムやその運営を維持する総合的な規律が理解できるのだとしたら、フランスはたぶん、この点で、世界のうちでもっとも遅れた文明国家だということが言えるだろう。市民の精神的な特権をフランス人に求めているだけで、われわれの指導者たちは、生が横溢し大志にみちた国の生活からたち現れる類まれな大志やイニシアティブといったものは、国全体の平均以下の生活や不毛な儀式めいた生活の中には存在しないということを、一切認めようとはしなかったのだ。」(Gireaudoux, Sans pouvoir, P.225)

音楽的創造において、ましな見解は望めない。一般は古い音楽にしか興味を持たない。実際、新しい音楽は退けられている。どんなオーケストラもプログラムに新しい音楽を入れるような冒険をしようとはしなかった。アルチュール・オネゲールの言葉を聞いてみよう。
「有名なシンフォニーは、一般の領域にあり、音楽協会の書棚の置いておくには格好の材料である。有名な曲はいつも演奏されているので、練習も少なくて済む。一方、新しいシンフォニーは練習が必要だ。難しく、またオーケストラが知らないからでもある。その上、他の費用がかかる。たとえば、楽器を借りたり、といったような。クラシックなシンフォニーは大衆を呼び寄せることができるが、新しいシンフォニーを演奏すると、まま会場が埋まらない。
ハイドンやモーツアルトの時代には、一般大衆のほうが新しい創作音楽を望んだものなのだ。だから、彼ら音楽家たちはあれだけたくさんの曲を残した。こんにちはしかしながら違う。重ねて言うが、われわれの聞いているのは作品ではなく、すでに知られた作品の演奏であるに過ぎない。」(Arthur Honegger, L’artiste dans la société contemporaine. Témoignages recueillis par l’Unesco, P.62)

この、音楽に対する興味のなさは、音楽教育の欠落から来ており、その責任はすべて政府にある。
創造活動の周辺をみてみよう。パリ国立コンセルヴァトワール(音楽院)は、オーディション室さえ持たない。ポール・デュカが言っていたように、この国ではサーカスか劇場で音楽をするありさまだ。
その上、フランスでは、国民の音楽教育のために民衆がこぞって聞きにいけるようなコンサートホールさえ存在しない。現在存在しているホールは、みな私営であり、営利主義のものばかりである。 コンサートに莫大な費用がかかってアーティストには一銭も利益が残らないようなこんな条件の下で、音楽がひどく限られた一般的には金持ちにしか聞かれないのは、驚くばかりではないか。
ラジオがこうした欠落を補えるわけがない。ストラビンスキーが言ったように、音楽的な感覚は実践がなくては発展させることなどできないのである。
「音楽は、ほかのいかなる分野と同様に、何もしないと感覚が鈍化し、身体的機能が萎縮するのである。ラジオから聞かされる音楽は、精神を活発化させるどころか、麻痺させる一種の麻薬のようなものだ。音楽企業がさらに聴いてもらうために流す音楽は、音楽への興味をそそるよりもかえってうんざりさせるという結果を招いているのが何よりの証拠だ。」

(つづく)

September 26, 2010

芸術省のために (1956年共和国政府覚書から)1

一度、世界のトップに立ち、他の国からモデルとしてあがめられた経験を持つ国は、精神の根底で地球レベルのおおきな夢を意識してやまないでいるように思う。文化において、過去長いあいだ先達であり、それがゆえに大きな歴史を形作ったフランスは、世界の文化を導いた過去の栄光を意識しつつ、廃頽した第二次大戦直後、新らたな時代を強く意識しながら、現代から未来へ向かって思考を始めている。
戦後の現代文化を形成する文化省の誕生に寄与した大本の思想。ここに引くのは、そのなかから1956年12月の共和国政府覚書第4号に掲載されたロベール・ブリシェの文章「芸術省のために」の翻訳である。(翻訳: S.H.)

最近の政府議論で、フランス共和国の体制とフランス国民のプレスティージュのために、芸術に関する問題の重要性が浮き彫りにされた。内閣の大多数が芸術省の設立を望んでいる。はたして、共和国は「メセナ」の役割をしなければならないのだろうか。世間は専門家が必要だというが、われわれに言わせるならば芸術家も同じように必要な存在だ。しかしながら、芸術家は自由であることが身上である。芸術家を助け、彼らを苛立たせずに規律の中に入れることが、メセナの義務というべきだろう。共和国はもう何もしないでいるわけにはいかない。この文章を書く著者、芸術・文学国務官である私は、われわれの文化の退廃を嫌というほど見た。はやく、救済策を講じなければならない段階にきているのである。

1956年7月、若いユーゴスラビア人がラジオ番組で尋ねられて、こう答えた。「私はフランスが好きだ。フランスのアートが好きだからだ」。この心から率直に出たシンプルな言葉は、たくさんの外国人が私たちの国に寄せる気持ちを要約するものだろう。しかし、私たちのまわりには親仏家ばかりがいるわけではなく、多くの人たちから多分に意味を含んだ発言も聞こえてくる。ソレントの近くの車の中で、ベルギー人と、スペイン人、キューバ人、オランダ人の旅行者の会話が耳に入ってきた。彼らは私たちの言語で話をしており、大都市のメリットを比べていたのである。オランダ人が、「パリは、世界の知性とアートの中心地だった」といったが、ベルギー人はこれに答えてこう叫んだ。「それは今世紀の初めのことで、今はぜんぜんそうじゃない。フランスはそのままで止まってしまっているが、そのあいだに他の国が発展している。芸術や建築は特にそうだ。私はフランスはとっくにトップから滑り落ちていると思うね・・・」と、ありとあらゆる世界の事情を取り上げて証拠を並べ立てた。他の旅行者たちがこぞってベルギー人に賛同するのに時間はかからなかった。フランスは決定的な非難を受けてしまったのだ。

いずれにせよ、この二つの対立した意見が存在しても不思議ではない。若いユーゴスラビア人はロマン主義やゴシック、クラシックといった栄光のわれわれの黄金時代を夢想して言ったのである。批判的なベルギー人は一方で、現代のフランスを酷評した。彼は、オルセー駅やグラン・パレ、近代美術館、パレ・ド・シャイヨといったスペインやイタリア、メキシコの装飾やオランダ、アメリカの建築とは比較にならないような建造物ではあるが、これらを除いては帝政失墜以来フランスが何も目立った建造をしていないのを糾弾しているのだ。


* *

実際、経済、社会、そして植民地政策において大発展をした第三共和制は、芸術についての政策はいっさい持たなかった。

私たちは、ことに絵画において素晴らしい芸術家に恵まれたが、それは公の権力とはかかわりなく発展したものだといわなければならない。つまり、政体を必要としないほど芸術が生命力に満ち溢れていたということなのだ。

イーゼルで描くディメンションの絵画ならまだしも、絵画でも大作やまた制作に費用のかかる彫刻などが、国のコンクールなどに参加することなどはまったく不可能である。
セザンヌ、ボナール、スーラ、レジェ、デュフィー、ピカソ、ルオーなどは国からはまったく無視されていたにもかかわらず、その栄光の頂点を極めることができた。しかし、彫刻が少しの光も放つことができなかったのは、アカデミックなアーティストばかりが取り上げられていたからだ。もしあの時代に国がモニュメンタルな彫刻に興味を持っていてくれたならば、マイヨールのような彫刻家がわれわれに何を残すことができただろう・・・。そんなことを想像するだに、嘆息せずにはいられない。

建築において、リヨンのトニー・ガルニエの実現したものを除けば、国は1000年をかけて、山ほどの教会や大聖堂、城や宮殿を作り続けた歴史からいえば、ナポレオン三世時代からなんらめぼしいものを建造していない。

都市計画において、17、18世紀の王宮広場や都市計画コンセプトの豊富さに匹敵するような近代の足跡はどこにも見あたらない。

(つづく)

September 18, 2010

ヨーロッパ文化遺産の日

9月の第三週のウィークエンド(18日、19日)は、ヨーロッパ文化遺産の日で、フランス、ベルギー、リュクサンブール、オランダなど総勢49カ国の各地の文化遺産が一般公開される。

もともとは1983年、フランス文化大臣ジャック・ラングが、フランス国内の文化遺産を開放して一般参観のできる日を設けたのが始まりで、大盛会を博したフランスの文化遺産開放の評判はあっというまにヨーロッパ各地へ伝染し、すでに1985年には近隣のヨーロッパ諸国が開催するほどになった。これに裏付けられて、ジャック・ラングは1991年、ヨーロッパレベルでの開催を正式提案。これによって、欧州議会で、ヨーロッパ文化遺産の日/ Journées Européennes du Patrimoine が認証されたもの。

第27回文化遺産の日のフランスのテーマは、「歴史上の大人物-女性や男性が歴史を作るとき」。日ごろ一般には開かれていない文化遺産を含めて、フランスでは全国で1万5千箇所の美術館、博物館、遺跡、お城、庭園、宗教建築、政府関係公舎(大統領官邸のエリゼ宮や別邸、シャンゼリゼのリドの舞台裏、フランス鉄道のアトリエや電車の操縦室、トゥールーズのエアバス工場では巨大なA380の建築行程や飛行機内の一般公開も)が無料公開されることになっており、今週末二日で、約千二百万人の動員が見込まれている。

・フランス文化相フレデリック・ミッテランの「文化遺産の日とテーマ」紹介(英語): http://www.journeesdupatrimoine.culture.fr/node/134

・フランス全国の文化遺産開放についての詳細情報 PDF(場所、開放時間、電話番号など23頁。フランス語バージョンのみ): http://www.journeesdupatrimoine.culture.fr/sites/all/themes/jep2010/images/presse/cp_programme.pdf

August 27, 2010

もう一度現代文化、サルコジの文化嫌い 

いつの間にかサルコジ攻撃をするほうに回って、アクチュアリティなどもサルコジ批判に関連するニュースを多く取り上げるようになった。思い出すのは、ニコラ・サルコジが大統領に選出された2007年の初夏、フランスの全国紙『リベラシオン』の第一面は、ほぼ毎日がサルコジ批判だったことだ。『リベラシオン』はどちらかというと革新系の新聞だが一般庶民的な新聞でもあり、たとえばサルコジが「ナショナル・アイデンティティ」を提起しはじめ、世間が大騒ぎをし始めたころ、新聞の第一面に北アフリカ系の顔をした「フランス人」が、レントゲンの機械の向こうに立ち、こちらから医者が虫眼鏡で映し出されている白黒のレントゲン写真を「骨の髄まで」フランス人かどうか検査している風刺漫画が描かれたりしていて面白がって読んでいたが、記事の内容はというといかにも深刻で、ユダヤ系フランス人が身分証明の更新のときに、役所で「宗教証明」なるものを提出するように命令されたとか、十年以上フランスで出稼ぎをしてお金をためた外国人が家族を故郷から呼び寄せようとしたところ、法律改定でそれが不可能になり、家族は別れ別れのまま一緒に住めないとかいった、フランス人や外国人の扱いに関する細則がじわじわと締め付けるように改定されていくというものだった。

今日は文化が、じわじわとどころか、大鉈を振られて潰され始めている。先ごろ、サルコジ政府による大幅縮小をした新しい文化省(芸術文学など各専門の庁が10庁あったのをこじんまり4つの局にまとめてしまった)が今年一月に発効した話を書いた。29年前、フランソワ・ミッテランによって再興したフランス文化省は、地域に現代文化活動が浸透し、地方財政が自立して文化を推進していくようになるまでのあいだ重要な文化のバックボーンとして大きな役割を果たした。現今、素晴らしいことにフランスは、市町村が何か催事をしようというときに真っ先に「現代アート」が候補に挙がるのである。それほどにフランスは現代アートが満ち満ちている。そんな国が出来上がったのもつかの間。植物がのびのびと空へ向かってのびているところを、まさかりで足元から伐採していくようなものだ。現代アートの庁「造形芸術庁」は、「縮小」の一言で消滅した。こんなふうに長い年月をかけて作った現代文化のインフラストラクチャーをあっけなくなぎ倒しにかかっているのが、今日のサルコジ政権なのである。

フランスの現代文化の敷衍とその政策についてまとまったものを書きたいと思っているうちに、サルコジのネガティブな時代を迎えてしまった。 文化省という国の文化のバックボーンが弱体化「させられた」ときに、各地の地方財政でまかなわれている現代アートは続いていくのだろうか。次に消滅させられるのは、文化省が国全体にかけたネットワーク、文化振興局だ。文化振興局という地域と地域を結ぶ横のつながりがなくなると、網の目の一環だった地方は孤立した点になってしまう。

せっかく積み上げてきた現代文化が崩壊していく危機。そんな時期だからこそ、悔しがってばかりおらず却って文化の話を蒸し返さなければならないとも思う。こうした雰囲気の中で現代文化について、フランスの論理をこれからわたしなりにセレクションして載せていきたいと考えている。(S.H.)

July 17, 2010

フランス、現代文化政策の終焉か?

新文化省にみる現代文化政策崩壊のきざし - ニコラ・サルコジが大統領に就任した年(2007)の12月に発案されていた文化省の再構成が、2010年1月13日、実施の運びとなった。それまで10の各文化・芸術分野の専門の管理局があったが、4つにまとめられて「見通しの良い管理構成を持つ目的で」あたらしい文化省が発効した。(政府の文化エキスパートの放逐と文化行政部の縮小とみられる。)

新たな文化省の構成は以下のとおり。

・Le secrétariat général(事務総局)、
・La direction générale des patrimoines(文化遺産局)、
・La direction générale de la création artistique(芸術創造局)、
・La direction générale des médias et des industries culturelles(メデイア・文化産業局)、

省間庁:

Délégation générale à la langue française et aux langues de France(フランス語とフランスの言語総合庁)

地域の文化省:

・Directions régionales des affaires culturelles(DRAC 地域文化振興局)
・Services départementaux de l’architecture et du patrimoine(建築文化遺産に関する県内サービス)
・Les établissements publics sous tutelle(外郭公共施設)

1981年の開設以来、現代アートのメセナといわれて、アトリエ建設、展覧会援助、カタログ援助、1%プロジェクト、パブリック・アート、アーティスト・イン・レジデンスなどの窓口でありつづけたDélégation aux arts plastiques (DAP 造形芸術庁)は、数年をかけて徐々にその役目を地域文化振興局(DRAC)へ移し、2010年1月、音楽・ダンス・劇場・スペクタクル局と合併させられ、La direction générale de la création artistique(芸術創造局)となって事実上消滅したかたちとなった。(ちなみに文化省の公式サイトのLa direction générale de la création artistique 芸術創造局のページは発効半年経ついまもまだ何の説明もない。)

現在、アトリエ建設や展覧会援助などの役割を文化省の地方分権化の成果とも言うべき地域文化振興局(DRAC)が行っているが、イル・ド・フランス地域のDRACはこの7月小さい建物へ引越しをする。近い将来これら全国の地域文化振興局(DRAC)も廃止が決定しているという。イル・ド・フランスのDRAC引越しは、まずDRACのなかでも一番大きい中央の機構を「窓際へ」ということのようだ。

My opinion:
1981年以来、文化省を10(10局の内訳は、文化大臣および時勢によって分類が少しずつ変化している。ちなみに2002年のジャン=ジャック・アヤゴン文化相下では、ダンス・スペクタクル・音楽・劇場、美術館、書籍・購読、フランス語、映画、文化敷衍活動、アーカイブ、造形芸術、建築・文化遺産、国際交流の10局)に分けてそれぞれの文化方面に適したきめの細かい部署を作り、局内にエキスパートを育成しながら(移動を極限におさえ一人の人間が常に一つの部署を切り回すことで専門化していく)、複雑化する「現代」へ対応しようと努力してきた国の現代文化のインフラストラクチャーが、サルコジ政権下、こうしていかにも簡単に崩されてしまった。 きめの細かい部署の発展は、過去そして未来へ向けて時代に対応すべき複細胞型を目指したものであったと思うが、この複細胞型の思想と構造を、「芸術創造」というかたちで政府が一つにひっくるめ、おざなりな単細胞にしてしまったことに、一個の外国人の私ですら無念を感じずにはいられない。
現代アートの専門でありかつメセナの庁であったDAPが徐々にその役割をDRACに移していった時期、DRACは過重な仕事を課せられて汲々としていたという話を聞いている。仕事は増えたが仕事に見合った人員は添加されなかったからだ。こうしてDAPの仕事を引き受けたDRACがこんど廃止されることになると、それと同時に現代アートへの政府メセナも終焉を迎えることになる。「近い将来」がいつなのかははっきりしないが、ミッテラン政権以来の現代アートの政府メセナは、DAPという大動脈を失い、DRACという末端神経を失う寸前にあるということがいえるだろう。
幸い、地方公共団体である地域・県・市町村の現代文化活動が活発化して活動の自立が見られるが、国という経済的援助のみならず精神的また専門的な大きな背景が消えることになると、どうなるのやら。
サルコジ大統領は就任以来、一度もオルセー美術館へ出向いたことはないそうだ。文学の話しをすると「それがなんの役に立つ?」と言い返す。フランスの大統領は文化に造詣が深いのが伝統だったが、フランスの伝統を壊す大統領は現在、国民の支持率最低を記録している。教育者削減、病院への援助削減、年金法改正(改悪)などで、福祉が大幅に後退。重税、物価高騰で貧富の差が開き、いまや国民の13%が金がかかる医療(歯科、眼科など)をしない、などという統計が出ている。2012年の大統領選に野党から誰が出馬するか、すでに大きな議論の的となっている。

ちなみに現在の文化大臣は、フランソワ・ミッテランの甥に当たるフレデリック・ミッテラン。(S.H.)

May 28, 2010

コミッション

年譜:
1959年-1969年 シャルル・ド・ゴール大統領 初の文化省設立、アンドレ・マルロー文相が10年一貫して在任
1969年-1974年 ジョルジュ・ポンピドー大統領 文化省継続
1974年-1981年 ジスカール・デスタン大統領 文化は閣外局に格下げ
1981年-1995年 フランソワ・ミッテラン大統領 文化省の再建、ジャック・ラング文相 1983年文化予算倍増
1995年-2007年 ジャック・シラク大統領
2007年-     ニコラ・サルコジ大統領

予算獲得に四苦八苦したアンドレ・マルローのあと5年経つかたたないうちに、文化省は「省」格を取り上げられてしまった。1977年1月に国立近代美術館を入れた新しい文化センター、ポンピドー国立文化芸術センターが開館したのを除いては、ジスカール・デスタン時代の閣外局が7年も続いて内閣のなかの文化はほとんどといっていいほど力を発揮できず、また進展もしなかったらしい。7年という長い空白から、1981年のミッテランの《レ・グラン・トラボー》宣言への大転換は、並々ならぬ試練を乗り越えなければならなかった。
ジャック・ラングの大臣室長だったジャック・サロワがこう洩らしている。「文化省の重要なポストについていながらなにしろ経験が浅すぎ、経済省の役人と対等にやりあってバジェットを動かすのもなかなか難儀な時代だった。・・・。また省の人員も、バジェットの取り合いに明け暮れるだけの人間が入り混じり、真の文化の大望のために省の中においても戦わなければならなかった」。

確かに、1980年代初頭にフランスに来た私などは、どこに行っても何かが壊れるか盗まれるようなフランス社会の荒れように心底驚いたが、あちこちで大工事がはじまるのを目のあたりにし、悲惨な社会をかかえたフランスのいったいどこから資金が沸いて出るのか、荒廃した日常と文化にかける莫大な大工事費との大きなギャップが不思議で仕方がなかった。文化省はこのとき、 再建といってもほとんど一からの出発である。文化の多様な姿を実現するにあたって、過去の正論をあちこちから拝借し今流に味つけするなどの苦心をあちこちにちりばめたようである。

ド・ゴールとマルローの60年代、衛星都市を中心に新しい都市を建設して新しい産業を発展させるプロジェクト、「新都市 Les Villes Nouvelles」計画が誕生した。マルローは、国の役割のひとつはコミッション(作品発注)だといったが、三種の神器とも言うべきコミッションについてミッテラン時代は、新都市計画を改めて推進する際、各都市の環境に適合した現代アートを大々的に組み込む計画を立てた。国土開発省の新都市建設プロジェクトを利用してコミッションを生み出し、モニュメントを新都市のあちこちに生みつけたわけだ。パリの西に建設された経済都市ラ・デファンス建設の際も数多くの現代アート作品が組み込まれているのは周知の事実である。

1960年代から開発の新都市は全国で9箇所、パリ周辺では5箇所:
セルジー・ポントワーズ
エヴリィ
セナール
サン・カンタン・アン・イヴリン
マルヌ・ラ・ヴァレ

May 21, 2010

レ・グラン・トラボー (1)

それにしても大工事だった。歴史上にも、「過去に匹敵するようなものは見当たらず、また未来もおそらくなかなか見ないような」とは、ジャック・ラングの第一期文相時代の大臣室長だったジャック・サロワの表現である。フランスの変貌を歴史的にみると、おそらく19世紀のオスマン男爵のパリ都市改造計画が大きなものとして目立っているが、1980年代のそれは都市改造という言葉だけに還元するようなものではなく、それをさらに大きく上回る何かが胎動していて、まさしく前代未聞の時代であった。時間がたったこんにち、その成果や失敗やらを含めて「今」を見極めるために振り返ってみる必要を感じている。

1981年に始まった《レ・グラン・トラボー》は、「文化」の大工事であったことをもういちど明らかにしておかなければならない。ほんとうの建設工事の始まりだったから、大工事をそのまま訳して《レ・グラン・トラボー》とよんだ。省内では建設現場そのものだから「シャンティエ(工事現場)」とよんだらしい。フランソワ・ミッテラン大統領が音楽、文学、現代芸術、科学技術などの文化のあらゆる分野において最も活発にして優秀な活動を実現する現場となる建物を建設することを決定して開始した大工事のことである。

国のすみずみまで、そしてできるだけ多くのフランス人にいかなる国の文化財産へも、またいかなる形態の現代芸術の誕生やその変遷へも自由にアクセスを可能にしてやりたいという念願に応えて(これは1959年、アンドレ・マルローが文化省の第一の目的として条例化した課題)、この工事の中には、ルーブル美術館の再建、いまだインスティテューションが行き届かない地域へ文化施設を敷設することも組み込まれたのはいうまでもない。

1989年のフランス革命二百年記念祭にあわせていくつかの大きな新しい文化施設の開館予定を、当時の文相ジャック・ラングがこう説明している。
「1989年7月14日は、ミッテラン政権時代の大きなポイントとなります。グラン・トラボーのうち重要なものが完成し、首都の文化における地理構造が明解なものになります。西は新都市ラ・デファンスの開幕、東はバスティーユ・国立オペラ開館、中央はルーブル美術館のピラミッド完成、そして北は科学技術館ビレットができるわけですから」。

ルーブル美術館の大工事《ル・グラン・ルーブル》は完成に約20年かかったという。地下のむかしのルーブルの発掘に始まり、 マルローが夢見たように、財務省に撤去してもらいルーブル宮を丸ごと美術館にした。財務省にどいてもらうからには財務省の入る新しい建物が要る。したがってベルシーの用地に新しい財務省を建設することをきめて実行した。
収蔵作品は、ルーブルが1848年の最後の王政までをカバーすることが決まっていたから、この後の時代の美術にかんして、1970年代に工事をストップされていたオルセー駅の改造計画を呼び覚ました。ついで、ジュー・ド・ポーム印象派美術館から19世紀の作品がここに移され、19世紀美術館と命名される。空になったジュー・ド・ポームはというと、現代アートの現場が少ないという意見があったからか、国立現代アートセンターに改造されて名前も改名し、現代作家の活動を企画することになった。
ひとつ何かを動かすとチェスのようにほかも動いていかなければならない。建物を動かすその裏側で、大きな文化の大編成が逐次行われていたのは、すでに言及したところである。

先のジャック・サロワは、「インスティテューションを敷衍するだけでは文化の地方分権にはまったく不足だ」と述べている。各分野の中心となる建物を建設しておのおのの凝縮した制度を確立することは、国民の目をいっせいに文化にひきつけるひとつの手段でありまた始まりでしかないことを、彼らが十分に理解していたことを指す一文だ。パリ中が工事で地響きを立てていたとき、「大きなシャンティエに隠れて、ほんとうに進めていかなければならなかった地方への機構作りは、大本の中央の機構作りが同時に行われていたこともあり、なかなかマネージメントうまくいかず葛藤がありすぎた」とも述べている。大工事に隠れたほんとうの大事業が、サロワの文章に「Combat 戦い」やら「Militer 闘争する」やらといった攻撃的な言葉が同じページに3度も4度もでてくるように、彼らに底通する日々の執着だった。
文化省のトップにいた人たちにとっても、文化を再建することは「戦い」そのものだったのだ。 予算を勝ち取って展覧会企画をしてくれる文化のミリタンの話をしたが、こうしてみると、この時代は文化を担う人々に「戦う」姿勢が上から下まで充満していた時代だったのだなあ。

May 19, 2010

デコンサントラシオンと文化

1969年、文化の地方分権化の始まり

La Déconcentration - ラ・デコンサントラシオン: 文化省の中央集権的政治および事務的構造を、地域に《地域文化振興局- Directions régionales des affaires culturelles/ DRAC》を作ることによって、文化行政が地域へ出現し発展するよう発想されたもので、アンドレ・マルローによって1969年、地域3箇所に初めて地域文化振興局がおかれた。
この文化省のブランチDRACの存在によって、文化省は地域へアンテナを伸ばすことができ、かつ地域議会の文化予算に対応する予算の注入への配慮などの、中央と地域のバランスがとれていくことが期待された。

フランス国内は22の地域に分割されている。それを考えると、マルロー時代、3箇所のDRAC設置は、まったくのはじめの一歩というべき象徴的な出来事というだけにとどまり、全国に文化省の力を敷衍するまでにはいたらなかった。

1976年(ヴァレリー・ジスカール=デスタン大統領、ジャック・シラク首相)、Françoise Giroud(フランソワーズ・ジルー)が文化付閣外大臣(文化は省から閣外の局レベルに格下げされ、大臣は閣外大臣と呼ばれる)となり、短い任期中、地域文化振興局DRACの設置を制度化する条例を制定した。

ジスカール=デスタンはヨーロッパ共同体へ傾倒し、シラクはデコンサントラシオンを理由に、文化省を閣外に落としたという。財政の地方分散で文化も地域の采配に任せたという話だが、地域は自立して活動を行うまでにはいたらなかった。フランソワーズ・ジルーはこの政権下で女性の解放、平等化などへ尽力し(1974-76)、文化への思い入れのある政治家の希少なこの時期の政府の中で、文化の夢に「固執して」DRACの条例化をすすめた(1976-77)という。

La Décentralisation - ラ・デサントラリザシオン: 1982年83年(ミッテラン大統領、モロワ首相)制定の地方分権法。中央の権威や能力を地方へ分散させ、地方共同体との平衡を図る法律。この法律は政治司法、産業その他全般にわたるもので、文化も当然ここに含まれる。文化において80年代は、政府の積極策と地方共同体の熱意が功を奏し意思疎通がうまくいっていた時代であった。また文化省から地域へ配分される予算の増加とともに、DRACの体制が強化された。

1992年2月6日および7月1日、行政管区におけるデサントラリザシオン憲章設立。地方へ分散した権威に活動の権限を優先して与えることを謳ったもので、文化もこの優先権の逆転により、大いに性格が再検討され塗り替えらることになった。

したがって文化においてラング文相時代は、中央の文化政策を地域で行い地方共同体の世話をするエキスパートの役を担うというDRACの機構が実質的に形作られた時代ということができる。

(Extraits de: “L’Etat et la culture en France au xxe siècle”  Philippe Poirrier, “Le lancement de la déconcentration” André-Hubert Mesnard)

May 14, 2010

国の役割

1952年、『沈黙の声』に出版されたアンドレ・マルロー/ André Marlauxのインタビューから。インタビュアー 、フランク・エルガー/ Frank Elgar。

E: ミュージアム(美術館・博物館)が発展することは望ましいですか?かえって、危険なのではないですか?
ミュージアムは、芸術の退廃の兆候で、私たちの創造する力が衰退していることをさししめしているのではないでしょうか?

文明の偉大な時代には、 新しい形を創り出すことのほうが先で、過去のものの保存にはあまり配慮をしません。文化を一般にひろめることは、芸術を喜びとして感じたリ、傑作を理解したりする人間の才能の増大に結びつくことにはまったくならない、とはお思いになりませんか?

M: 「偉大な時代」とは、何をさしておっしゃっているのでしょう?隆盛の時代のことでしょうね。卓越した時代が歴史を構成するとすれば、当然ミュージアムは可避できません。ミュージアムは墓場などではなく、激しい問いかけです。・・・。私たちの芸術はミュージアムから生まれ、ある意味でその論理によって発展しています。ミュージアムのおかげで過去の形を知ることができるのであって、今の私たちが新しい創造をすることとはまったく抵触するものではありません。

・・・・・

E: さて、民主議会制度において、国の芸術的な役割とはいったいどうあらなければならないかという問題にアプローチしましょう。

こうした政体の中で、正当で理性的かつ洞察力を備えた国民の芸術生活のための執行部をつくることが可能だとお思いになりますか?
もし可能だとお考えでしたら、いったいどのような条件のなかで、 そうした政策が行われなければならないのでしょうか?

M: いやはや!国は芸術に、いっさい方向付けをしたりしません!
芸術に方向付けをする、とすれば、それは芸術ではなくて芸術に名を借りたほかのものになってしまいます。たとえばロシアに見たように、芸術はプロパガンダや国民を扇動するのに利用されました。・・・・。
芸術を芸術として指導する、ということをいいたいならば、それはまったく意味を成しません。現代芸術は芸術の執行部など必要としていませんから。指導というのは美術学校の段階のものでしかありません。

E: それでも、国が必要とされる場合がありますよね?もし必要とされるなら、どういった場合ですか?

M: 国に負わされた使命は、美術館と展覧会、そしてコミッションです。・・・・。

行政的な問題を解く機構が薄っぺらすぎ、また支援体制も弱い。国は芸術を行っている人たちにみあった力をつけたものでなければなりません。
要約するならば、国は芸術に方向付けをしたり芸術を指導したりするためにあるのではなく、芸術に仕えるために存在します。

・・・・・

E: この計画の主軸となる思想を概観すると、国に対するあなたの不信感は、あなたの人間への信頼感と同じくらい大きいように見受けられます。

M: 国は、現実に芸術に触れることのできるフランス人にむけて、できるだけ多くの人が芸術に触れられるよう努力をしなければなりません。
私たちは注文を受けて仕事をするようなクリエーターでもアマチュアでもありませんが、芸術を真の表現のなかで観ることができなければ、それ以下の人間になってしまいます。民主主義とは、ここでは、より大多数の人間がより広範囲の芸術作品を見ることができる政体のことなのです。

このインタビューが国と芸術の問題をさいしょに明解にしたもので、将来の政策の下書きとなった。
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