謹賀新年 2012
Video suggestion: Artworks with changes of nature in autumn- winter in Kanaz (music ” Rain Forest”)
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文化の冒涜 - 「Outrage at Sarkozy’s Versailles Choice、サルコジのベルサイユ選択の理不尽」とはイギリス、ロンドン発行のThe Art News Papaer (フランスの芸術専門新聞Le Journal des Arts系統)の記事の表現。ベルサイユ宮殿および博物館国立管理局(日本語訳仮称: L’Établissement public du château, du musée et du domaine national de Versailles (EPV))のディレクター職を2007年から勤めてきたジャン=ジャック・アヤゴンのあとを、ジャーナリスト出身のカトリーヌ・ぺガールが引き継ぐことになった。
ジャン=ジャック・アヤゴン(Jean-Jacques Aillagon)はポンピドーセンターのプレジデントを6年勤めたあと2002年から2004年まで文化大臣を務め、2007年から同ディレクターとして、現代アートをベルサイユ宮殿に入れる試みをして、ジェフ・クーンズや村上隆などの展覧会を開催してきた。元大臣グザビエ・ダルコが、現代美術を推進して戦う(実際、これらの現代美術展を開催するにあたって訴訟問題があり裁判で戦ってきた)姿勢を続けて欲しいとして、契約切れの2011年以降、3年の契約更新が内定していたが、この内約に反してフランスの「定年65歳」が適用されることになったという。
10月2日付けで就任するカトリーヌ・ぺガール(Catherine Pégard)は、フランスのLe Point誌の政治ジャーナリストを経て、サルコジ政権樹立後、国会付の政治顧問となり政治に関するメディアを采配してきた。政府のジャーナリズムの取り込みようは、2007年のインタビューで政治とジャーナリズムメディアにかんしへラルド・トリビューンの記者ジョン・ヴァイノウカーが「政府とジャーナリストの共謀は行きすぎ・・・」と発言したほど。30年政治一点張りで、一切文化関係の経歴を持たないカトリーヌ・ぺガールのベルサイユ宮殿および博物館国立管理局ディレクターへの指名は文化関係者たちに大きな波紋を及ぼし、8月5日付けのル・モンドも、「ベルサイユ宮殿に[専制君主]は真っ平ごめん」([専制君主]はこの場合、サルコジ政権)と激しく糾弾した。
職員1000人、年間参観者350万人、バジェット8000万ユーロという機構の複雑なベルサイユの采配能力が問われるぺガールのノミネーションは、フランスのみならずイギリスのThe Art News Paperに見るようにあちこちで大きな非難の的となっている。( The Art News Papaer、カトリーヌ・ぺガールWikipedia)
La bataille de tchernobyl: Un documentaire réalisé par Thomas Johnson (94’) - Année : 2006
「ラ・バタイユ・ド・チェルノビル…チェルノブイリの戦い」 - 1時間34分ドキュメンタリー・TVフィルム、トーマス・ジョンソン監修、2006年。
注記: 以下の文章は、数分前に見た「チェルノブイリの戦い」のなかで気にかかる点をいくつか抜粋したものである。2011年は、チェルノブイリ原発事故から25周年。またこのフィルムの制作された2006年は事故から20年の区切りとなる年で、メルトアウトの危機にたいするゴルバチョフの戦いも含め、当時を振り返りまた現在を検証するフィルムとして出来上がっている。福島第一原発事故のあと、このルポルタージュはフランスで何度か再放送され、われわれの将来に向かって重要な示唆を提供し続けている。
《ラ・バタイユ・ド・チェルノビル…チェルノブイリの戦い》から、抜粋
「事故が起きてすぐヘリコプターに乗り込み、チェルノブイリ原発の上を飛んだときに、破壊された建物を撮影するために窓を開けた。それが大きな間違いだったことをあとで知った」。チェルノブイリ原発事故の経過を撮りつづけた写真家がそのときを振り返ってこう語った。1986年4月26日。ウクライナのチェルノブイリ原発4号機の核燃料が稼働中に大爆発を起こし、放射性物質が粉塵となってヨーロッパ中に飛び散った。放射能の雲がほとんど欧州全土を覆う大事故。懸念された二度目の爆発を食い止め、チェルノブイリ事故を収拾させるために放射能の中で働いた「始末屋」とよばれる人たちは、総勢80万人といわれている。
4号機の格納庫は破壊されて粉々になり一部の燃料があちこちに散乱して、マグマになった核燃料は空気に触れて高熱を出しながら遮蔽床のコンクリートを溶かし始めていたことを知らされたゴルバチョフは、「とにかく何とかマグマがそのまま地中へ沈んでいくのを食い止めなければならなかった」と当時の緊急事態を回顧する。チェルノブイリ原発付近は豊富な地下水が流れており、地下水に放射性物質が届けば、そのまま川を汚染してウクライナからキエフに至る広範な地域を無人の街にしてしまう重大な危険性があったからだ。ソ連は技術者の頭脳を集め、原子炉にいたる地下道を掘ってマグマの沈下を食い止めるストラクチャーを作ることを決定。高濃度の放射能を放つ4号機まで近づき、トンネルを掘って炉心の下にストラクチャーを作る男たちを募らなければならなくなった。20歳から30歳の、放射性物質を始末する「始末屋」と呼ばれる男たちが、10万人が軍隊から、また40万人が一般市民や技術者などから集結し、前代未聞の大プロジェクトに取り組むことになった。
チェルノブイリ付近は砂地で、トンネルは深さ13m。摂氏50度という高温のトンネルの中では、防護服もつけず、またマスクがあってもすぐに汗で使えなくなるためにはずし、ひどい場合は上半身裸でスコップで土を搔きだす作業が大車輪で行われ、ふつうなら3ヶ月かかるといわれる150mの長さのトンネルを使命感に駆られた始末屋たちが一ヵ月半で堀りあげた。「とにかく、急がなければならなかった」と当時のリーダーが言う。「トンネルの中は外より少しはいいという話だったが、水を飲むと鉛の味がした。内部被曝は水を飲むたびに起きていたのだと思う。土を掘りながら、土が口の中に入って飲み込んだやつがいたが、死んでしまった」。トンネルから外へ出ると、鉛をあちこちに貼り付けた装甲車まで走らなければならなかった。外部はトンネル内部の300倍の放射線量があったのである。
事故から8週間後、外への放射線放出を食い止める石棺の建設に取り掛かることになった。高さ66m、幅60mという大規模な石棺建設は、ひとつのエラーも許されず、また事故後の3号機の屋根にふりかかった高度の放射能の瓦礫を取り外さなければならなかった。人間が近づけないほどの放射線量のなかで、最初は誘導ロボットが瓦礫を片付けていたが、あまりの放射能にロボットが狂いだし、屋根から落ちてしまうものが出てきた。人間が仕事をするしか手立てがなくなった。ひとり約25kgから30kgの鉛の板を体中に貼り付けた「始末屋」が、たった一回40秒しか仕事をすることが許されない過酷な放射能の中で、スコップを持って瓦礫の始末にかかる。40秒仕事をするとほかの始末屋に交代をした。こうして3500人がこの任務について瓦礫の掃除をやりおおせた。
「ほんとうに別の世界のようだった。瓦礫ばかりで、自分の歯の感覚も耳の感覚もなくなって、口の中が鉛をかんだような味だった。スコップで仕事をする人間を見たとたん、彼らを撮りまくった」と写真家。彼はこのときから、一年のうち2ヶ月は入院しなければならない病人である。「20年経った今も、口の中は鉛の味がする」。3号機の屋根に上って仕事をした人たちの被曝量は1万から1万2千ベクレルといわれている。石棺の建築はロボットが行うことになっていたが、ロボットを現場まで運転していくのにやはり人間が必要だった。
「チェルノブイリ事故の収拾に180億リーブルかかった(リーブルはこの当時ドルと同価)。ものすごい費用でした」と、ゴルバチョフ。それまで嘘や不透明な情報ばかりを流していたソ連が、この事故ではじめて信用のおける情報を公表したことで、グラスノスチが評価されることになる。
続けてゴルバチョフは、「ソ連は当時、アメリカに対抗するために、2700基の核弾頭を保有していた。核弾頭一基がチェルノブイリの100倍の威力があったんです。100倍のチェルノブイリが2700基も。どんな残忍なことになるか想像がつきますか」。世界が戦略核兵器削減へ動き出す。
20年後、30年をめどに建設された石棺は傷みが早く、ひびがあちこちに入り再建しなければならない。再建費用10億ユーロが揃わず、遅滞している。(今年2011年、石棺建設費用の一部捻出がようやくなった。)始末屋として事故収拾に従事した50万人のうち、2万人が死亡したといわれ、20万人が被曝認定患者となっているという。高度の放射能の中で仕事をした20歳から30歳の男たちは今50代前後。あのときから生態異常をきたし、あらゆる内臓疾患や神経系統の疾患に苦しみ続けている。一方、現在白ロシアの放射能汚染地域に800万人が生活をしており、この地域だけでも甲状腺がんの子供は1000人を超しているという。当局は、人体への被曝量基準値を5倍にして、被曝者の数を減らそうとするなどの工作をしており、一般市民に至っては事故の被害者数はまったく把握されていない。
「なんとしても原子力から手を引いて、ほかのエネルギーに切り替えなければならない。われわれが未来に残していくものがいったい何なのかを考えなければ」と、現在のゴルバチョフは言い続ける。(LCP TV)
France 2 TV企画 COMPLEMENT D’ENQUETE ” Nucléaire - la catastrophe qui change tout” (ビデオ)、フランス2TV番組、《コンプレマン・ダンケート、「原子力、すべてを変える災害」》、長さ1時間55分、2011年4月18日放送。
(追記8月2日:フランス2TVのこの特番は消去されてビデオは見られなくなりました。)
注記: フランス2テレビ企画、《コンプレマン・ダンケート(「調査の補完」の意)》は、社会問題、政治問題、事件などの深奥を調査し公表することを目的に制作されているフランスのテレビ・ルポルタージュで、敏腕ジャーナリストとして知られるBenoit Duquesne(ブノワ・デュケンヌ)が現場の責任者のインタビューや取材映像をまとめ、問題の中心に迫る司会をする。90分番組。カナダのケベック(フランス語圏)でも再放送される。特番「原子力、すべてを変える災害」は1時間55分といつもより長く、フランス国民の関心の高さを繁栄。ちなみに、原発問題に関するこの番組は、現在フランス2TV のビデオの再生回数でトップにランクされている。
注記2: このブログでは、115分という長さの番組を全訳することは困難なので、番組の構成全体を浮き彫りにすることを中心において要約することにする。
急いでいる方へ、番組の要約:
・福島原発事故のあと、世界はどのように変わるだろうか。ドイツは原発廃止へ大きく動き出した。フランスは?
・フランスは日本のように世界でも一番古い原発を有している。耐用年数を過ぎた原発はどうなる? 延命するためのメンテナンスあるいは廃炉や解体はどのように考えられ、どのような現実問題を孕んでいるか。
・フランスの原発事故発生回数は年間750回。なかでもレベル2の事故発生は、1999年の大嵐でフランス全体が被害をこうむったときで、炉心が浸水して制御が利かなくなった。事故のあった原発責任者にインタビュー。
・フランスで利用される電気エネルギーの数的分析に言及し、EDF フランス電気会社原子力発電総合ディレクター、ドミニク・ミニエールにインタビュー。ほんとに安全?
・原発の大問題点、放射性廃棄物の処理。フランス全体の核廃棄物および放射性廃棄物を貯蔵する大センターを取材。廃棄物ストックセンターの責任者にインタビュー。密閉、それでも漏れる放射能。
・1991年に閉鎖され、廃炉が決定した原発の解体作業は今も続けられている。解体中の原発の現場取材と責任者のインタビュー。この原発解体に要する年数は早くて35年、完遂は2025、6年あたりが目処だ。
・ウラニウムは数10万年間高度の放射能を出し続ける。
・シャンパーニュ地方の放射性廃棄物貯蔵庫建設反対運動。地下490mのところへ廃棄物をストックする構想で工事が進んでいるが、本当に安全だろうか? 70年代にドイツで同じように地下にストックした放射性廃棄物が危険な状態になり、地下水を汚染し始めている。
・ブルターニュの閉鎖した原発の解体工事に住民が反対。解体作業は中止。廃炉は常に高度の放射線を放ち続けている。
・フランス、エコロジー大臣のインタビュー。原発以外の新しいエネルギーを見つけられるか?
・政治と社会問題が浮き彫りに。新エネルギー推進を提唱したサルコジ政策はいずこへ。地域住民や政治家の新エネルギー対策がどうしてうまくいかないか? 取材は、ジロンド県の市長、エコロジー協会、そして国会で社会党議員、UMP議員を直接インタビュー。新エネルギー対策を阻む部分へ焦点をあてる。「エコロジーよりエコノミー」
・エコロジー協会の原発反対活動、再生可能なエネルギー開発への努力。
・エコロジー、緑の党書記長セシル・デュフロにインタビュー。原発、ガス、水力、エオリアンなどの発電経費の比較で、一番安いのは原発というのが定評だが、裏に隠れた経費はなぜ話題にならない?
・フランスに20年住む日本人レイコは福島県出身。今回の事故で福島に住む両親の元へ世話をしに帰えることを決断した。実家の周辺で採取した野菜をフランスのラボラトリィARCOが分析し、セシウム137、134、ならびに放射性ヨウ素131を検出。 いずれも人体へ影響を及ぼしかねない量。取材は福島近辺の市場へ。ある八百屋は、「ときどき産地偽装の疑いがある野菜が入ってくる」という。
・ ARCO研究所の放射線研究家のインタビュー。原発のリスクと放射線の健康へのリスクへ言及する。
・結び。原発を選ぶかほかのエネルギー源を開発するか、チョイスは社会の問題。
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フランスTV特番、《コンプレマン・ダンケート、「原子力、すべてを変える災害」》 ・・・
[問題提起]
チェルノブイリのあと、があるなら、福島(原発事故)のあと、がある。ドイツは原発の転機を迎えたかのように廃止論が一挙に進んでいるが、フランスは今後どういう方向に進むのだろうか。フランスは世界一の量かつ日本と同じように古い原子力発電所をかかえている。「安全性」と「確実性」は常に提唱されてきたことではあるが、フランスの原発はEDF フランス電力会社が言うように本当に安全なのだろうか。撮影現場をノジャン・シュール・セーヌ(首都パリに一番近い原発のある町、パリからの距離は108km)にある原子力発電所に設定して、問題を掘り下げていくことにする。(ノジャン原発の内部案内、原発責任者のインタビュー)
フランスの原発事故は公表されている数、年間750件。ほとんどが小さな事故ばかりで原発の外に放射線が漏洩するような事故ではないが、過去にレベル2の事故を記録している。1999年、フランス全土を大嵐が襲ったとき、ジロンド県にある原発が浸水。炉心は自動で停止したが、嵐と浸水でジェネレーターが故障してメルトダウンを越しそうになった。事故の発表はそれから8日後。事故後の見通しが利いてはじめて情報公開をしたことになる。事故が起きた原発は、ボルドーから50kmほど北に上ったブライエ原子力発電所で、4つの炉心を持ち、核燃料量は80トン。広島の爆弾Aの1000倍に匹敵する量だ。事故のシミュレーションを原発内で職員とともに行う。ジロンド川の増水に備え、県はEDFに対し堤防を高くする工事を勧告していたが、EDF側は工事をひき延ばしていた。1999年の嵐による川の増水は原発の炉心を水に浸けて事故を起こしたが、地域の環境保護団体は、「満潮時でなくて助かっている。もっと水が多かったら放射能は川へ流れ出ていたはずだ」と証言する。この事故のあと安全対策強化で堤防工事が行われた。
またこの原発は耐用年数30年を見越して建設され、今年がその30年目。「廃炉にするんですか?」というTVの質問に、ブライエ原発責任者のデュテイユ氏は「いいえ、これからも原発は稼動し続けます。原発はこれまで常に改善し続けてきたので十分な稼動性と安全性を備えているからです」と答えた。ブライエの町は、この原発のおかげで職もありまた住民のための施設もたくさんできるほどに潤ってはいるのだが・・・。
「EDFは、安全だ、対策を施している、と言い続けているが、福島だって同じように大丈夫だといい続けてきたのに、あんな大事故になったではないですか。フランスも大丈夫とは言い切れないのでは? 」という質問に、「いつも改善を続けているのは安全対策にしても同じことです。日常の安全対策と、緊急の場合の安全対策を並行して思考していくべきでしょう。またコンセプト的な部分と現実的な部分も分けて改善していく」と、EDFフランス電気原子力発電ディレクター、ドミニク・ミニエールが答えた。
フランスの数字についてフランス2TV 調べ: 原発炉心数58、原発の数19、原発が賄う電気エネルギーは80%、総体的なエネルギーのうち原発が賄うのは16%、原発の寿命25年、原発建設費用50億ユーロ、年間のメンテナンス費用炉心一基につき6億ユーロ。
[膨大な廃棄物処理にかかる隠れた費用と危険性は?]
シャンパーニュ・アルデンヌ地方にあるスレーヌ放射性廃棄物貯蔵所は、フランス全土の原発から廃棄物が寄せられるフランス最大の廃棄物ストックセンターである。野原に高さ8mの立方体のコンクリートの密閉貯蔵庫が立ち並ぶ。年間2万個の廃棄缶が全国から寄せられるという。放射性廃棄物の量は膨大だ。1982年まで海底に沈められていたが、海への放棄が禁止されてのち、この地方に放射性廃棄物貯蔵センターを設ける事が決定した。廃棄物はドラム缶のような缶に入れられて50cmの厚さのコンクリート容器の中でコンクリートで固めて密封される。当初はコンクリートによる完全密封が謳われていたが、数年後放射線が外へ漏れていることが発見された。センターの責任者は、「これから20年もすればもっといい方法が見つかるはず」という。「現在ノジャンから来た廃棄物入りの缶を処理していますが、これらは短命な放射線廃棄物質です」、「短命とは、どのくらいですか?」というTVの質問に、センターの責任者は、「300年です」と答えた。一方水の中にストックされているウラニウムは数10万年放射能を出し続ける。(現場取材)
同じアルデンヌ地方の丘の懐に、1991年に閉鎖された小さな原発がある。建設当時最良の原発といわれたこの原発は、閉鎖後20年経った現在もまだ解体作業中なのだ。原発建築内のすべての構築物を廃棄するには少なくとも35年はかかるという。そのあいだも厳重に警備を行っていかなければならない。解体されていく原発内のパイプや鉄骨のすべてが放射性廃棄物とみなされ、危険な作業が注意深く行われている。一日に処理できるのは10ピース程度。ちなみに廃材の再利用は99%不可能。(現場取材)
シャンパーニュ地方のビュールに建設中の廃棄物ストックセンターは、地中にある。エレベーターで下ると8分もかかる490mの深さのところへ、トンネルを掘り、厚いコンクリートで作られたパイプに廃棄物を入れていくが、この地方の粘土質の土が放射線を断絶するというのがこのストックセンターをここに敷設するための最大のふれこみとなっている。地質学者も1億6千万年この地方の土地は動いていないと保証する。動かない地下に廃棄物を・・・。しかし、ドイツのニーダー・ザクセン州のアースでも同じように「地面は動かない」という前提のもとに1970年代、約13万個の廃棄物を旧塩田坑内に廃棄したが、現在この地域の地下が6mも動いていることがわかった。坑道にはひびが入って地下水が浸入し、廃棄物の放射能が地下水を汚染し始めており、廃棄物を一つづつ回収する困難な作業が始まっている。(シャンパーニュ、ドイツ現場取材)
それでは、原発解体のときの廃棄物をどうすべきか? ブルターニュの古い原発では、閉鎖をしたものの解体作業は行われていない。住民の反対運動が功を奏したもので、EDFフランス電気が解体作業について住民に知らせなかったことを理由に、国務院がEDFにたいし解体の停止をいいわたしてすべての作業が中止となった。現在は原発内を見学できるようにしている。そのあいだに閉鎖されている原発の警備費用は5億ユーロに膨らみ、一方で原発は停止したものの炉心はむかしのまま人間が近づけないほどの放射線を出し続けている。(現場取材)
ナタリー・コシシウスコ=モリゼ、フランス・エコロジー大臣のインタビュー。「原発を脱出してもう一つの新しい時代をつくっていかなければならないのではないですか?」「放射性廃棄物のリサイクルは1、2%ていど。原発はどうしても止められないので原発と共存しながら、エオリアンやソーラーパネルなどの再生可能なエネルギーを考えなくてはならないですが、ソーラーパネルもリサイクルができない廃棄物を出します」と大臣。「結局は、エネルギーの節約です」。
[政治の一転二転、迷走する国民]
2009年サルコジ大統領は、「これから政府は、再生可能なエネルギーの推進に向けて大きな努力をし、世界一の再生可能なエネルギー使用の模範国となる」と宣言をして、ソーラーパネルやエオリアンを取り扱う企業にはっぱをかけた。その上、ソーラーパネルで作った電気を政府の援助のもとにEDFが買い上げるという特別条例を儲け、ソーラーパネルの設置を促進する条例まで作った。政府を当てにした多くの中小企業が資金調達をし、再生可能なエネルギーを敷衍する商売に乗り出したのもつかの間、一年後の2010年、政府は手の裏を返すように、新エネルギー開発へのてこ入れ中止。これら中小企業が軒並み借金に追いかけられるはめに陥ったのはいうまでもない。(ビデオ、2009年サルコジ発言)
[再生可能なエネルギーの開発と敷設への問題]
エオリアン設置に乗り出した地方議員もいる。しかし、エオリアン建設反対派がハラスメントをするなど、地域の賛同獲得は容易ではない。一方、フランス国会でも異変が起きた。エオリアンを建設するに当たって、「建設費用以外に、耐用年の期限がくる20年後の解体作業費を確保しておかなければならない」などという前代未聞の建設条件が付け加えられたのだ。エオリアン推進者は、「原発を作るときに解体作業費を見込んでおけ、なんていう法律は無いですよね。なぜエオリアンを作るのに解体費用が必要なんですか」と、怒りを隠しきれない。あらゆる逆風にあおられ、エオリアン一基を建設するのに以前は3年ですんだものが8年はかかるようになった。
社会党議員の一人が国会で、「国会には、数多の原発賛同者がいるんですよ」と答えた。そのとき偶然にもTVカメラの前を通りかかったのは、エオリアン解体費用の規制条項を作った張本人のUMPの議員。TV取材に応じる。UMP議員の地元は、原子力のAREVAアレヴァ社の息がかかった地盤だという。AREVA社やEDF社が地域や地域の人を潤す経済の図式が・・・。(ジロンド県、パリの国会現場取材)
エコロジー、緑の党書記長セシル・デュフロのインタビューに際し、フランス2TVは発電にかかる費用を掲示した。
フランス2TV調べ: 原子力発電1時間1MWにつき46ユーロ、天然ガス1時間1MWにつき60から70ユーロ、水力発電60から80ユーロ、地上エオリアン80から90ユーロ、オフショアーエオリアン160から180ユーロ、ソーラーパネル300ユーロ。「原子力発電が一番安いという計算ですが」。「とんでもない。これは発電のみにかかる数字を並べただけで、目に見えない部分にかかるまったく別の経費については無視されていることが分かります。たとえば廃棄物処理とか、メンテナンスとか、解体作業とか。何十年もかかる解体作業にはいったいいくらかかるか見当もつかない」と答えるデュフロ書記長。「 危ない原発をやめて、徐々に再生可能なエネルギー開発に取ってかわっていったほうがよっぽど明解です」。
[放射能]
福島原発事故の現実について、フランスに20年在住しながら、今回の原発事故で福島の実家の両親の元へ帰ることを決意した日本人女性「レイコ」の姿を、カメラが追った。福島では原発周辺地域が放射能で汚染され続けている。レイコは両親がどのような環境の中で生きているのか、実家近辺の農家などから野菜を採取し、フランスTVの協力によって、フランスの国家認定付放射能検査ラボラトリーACROへ野菜の検査を依頼。結果、大きく許容量を超えたセシウム137、134、また放射性ヨウ素131が検出された。福島の市場では野菜がいつものように売られている。「大丈夫ですか?」とたずねるレイコに、大概は「ここに入っている野菜は検査済みなので、大丈夫」と答えたが、ひとりの八百屋の主人が、「どうも、ときどき産地を偽装しているらしい野菜が届くことが・・・」と口ごもった。(現地取材)
取材は再びノジャンへ。国家認定付放射能検査ラボラトリーACROの(Association pour le Contrôle de la Radioactivité de l’Ouest 、チェルノブイリ事故のあとに設立)科学研究員のインタビュー。「福島原発はまだ事故の収束がいつになるかわからない危険な状態が続いています。放出される放射能は環境のみならず人間の健康へ大きな被害をもたらすことは明白です。チェルノブイリ周辺地域は、事故後25年の今日も汚染された地域は立ち入り禁止のままなのを見ても分かるように、放射能はいまだに除染の方法がありません。現代では不可能な技術なのです。放射性ヨウ素131は80日間で放射線を半減するというだけで、放射線を出し続けます。ヨウ素129がある場合、放射線は1600万年続きます」と、ACROのバルベ氏。
[原子力は果たして人間が扱ってはいけない魔物(サタン)なのだろうか]
最高のリスクを孕んだ原子力について、いま世界全体が積極的に討論していくことが望まれている。社会が「転換」を受け入れるかどうか。これからの世界は社会(われわれ)の選択にかかっているのだ。(Complément d”enquête, fin)
先月3月25日から26日ころ、福島原発事故にかんし、日本がフランスへ技術救済を求めてきたことをだいぶラジオやTVが報道している。「とうとう日本が、フランスの原子力技術で助けてほしいといってきた」とフランス・アンフォ・ラジオは一日中繰り返し、日本の窮状にフランスが関与するかどうかEDFが検討開始した、といったことを報道し続けた。協力をするにしてもまだ人材を送るわけには行かない、などといった話だったのが、24時間も経つと、「EDFフランス電気、AREVAアレヴァ株式会社、Commissariat de l’énergie atomique(CEA)フランス原子力庁の三箇所が協議し日本へ協力する方向へ」ということで、フランスの三つの機構が協力体制を組んで援助をすることが決定した旨、国内で大きく報道されることになった。
そうこうしているうちに、どういうわけか急にサルコジ大統領が日本へ行くという報が伝えられ、3月29日、AREVA社のディレクター、アンヌ・ロベルジョンと来日し、サルコジ大統領が日本で救済に向け演説をした。
さて、それからだ。よく分からないことに、日本の一部の報道で、日本が頼んだからというよりは、フランスが率先して技術援助を申し出て、突然サルコジ大統領が来日した、というはなしが聞こえてきたから耳を傾けないわけにはいかなくなった。これにさらに輪をかけ、フランスの大統領がわざわざ来日までして援助を申し出たのは、「原発事故の構造が知りたいのではないか(技術的好奇心?)」とか、「フランスの原子力開発にほかの国のような原発反対運動でストップがかからないための国策保護」、といったような勘繰りともつかない憶測を民放のTV局がして、提供される援助をありがたがる雰囲気でもないのに少々驚いた。前の週、フランスでは日本が援助を求めてきたのでフランスはそれに快く回答したことになっているのに、このメディアの食い違いはいったいどういうことだろう。
それより少し前、フランスが援助物資を送る段階で、核燃料の冷却水を100トン送るとTVで専門家が言ったとき、「100トンとは少なすぎませんか?」とアナウンサーが質問したが、これに対し専門家は、「この数量は、日本側からの要請に従ったものです」と答えて会話が閉じた。あれやこれや思い出しても、 事実と周辺の憶測の入り乱れは、話や行動の一番最初のきっかけとなるものが第三者にきちんと知らされていないと、自然に見方が歪曲されていってしまうことを指してやまない。
原発そのものがすでに大きな見えない部分をかかえている。情報のありようが大きく問われる震災でもある。(S.H.)
海岸松の大被害、その影響
2009年1月24日に暴風雨「クラウス」がフランス南部の大西洋側を襲った。南西部のランド県はヨーロッパ一の大きさを誇る海岸松の植林による林業が大きな産業として知られている。この日、時速180kmの大風を吹かせた暴風雨クラウスは25万ヘクタールの森林地帯に被害を出し、なかでも海岸松に大きな打撃を与えた。一日で破壊された海岸松は約4000万立方メートルにもおよび、この数字はランド県が産出する松材の5年分にあたるという。暴風雨から2年経つ2011年の今も、森林の復活は遅々として進まず、公共用地に関する植林のための150万ユーロの援助金が予定されているだけで、災害を受けた私有地については何ら見込まれておらず破産状態の林業農家が少なくない。(TF1 TV)
ランド県は、湿地帯で人間も住めず栽培もできなかった土地に、ポンプのように地中の水を吸い上げる海岸松を植えることで、地表を乾かし、人を住まわせ、野菜栽培を始め、また松のおかげでフランス最大の林業が発達させることができたという逸話のとおり、150年来、海岸松の恩恵を受けて人間の生活を成り立たせてきた土地である。ランド県の松の大災害は、林業に携わる3万4千人の人々の経済のみならず、土地のエコシステムへ大きく影響をしはじめる危険性を孕んでいるのだ。(S.H.)
数日前にこのブログで、フランスは外国人に永住権も与えないし、法的に職業規制があったりで思った職業にも就けない、という話をした。
「私たちは芸術家でよかったわね。芸術家にはだれだって自由になれるのだから」と同じ建物に住むスエーデン人が言ったことがあった。フランスの外国人は自由に職業を選ぶことができないという硬派のフランス社会についてはなしをしている最中に飛び出した意見だったが、このときの私はうーんとうなったばかりでうまい返事は出てこなかった。国から何の制限もない芸術家職は、そんなフランス社会の厳しいプロテクショニズムとは関係がない、とこのスエーデン人は言いたかったらしい。しかし、本当にそうだろうか。周りの人々が汲々として決められた制限のなかで生きているのに、そうした色に染められた社会の見識から免れて芸術家だけが自由を享受できる、というのはむしのいいはなしではないだろうか。
20年近く前フランスは、現代文化において「政府メセナ」のモデルとして日本でも盛んに紹介された。私企業のメセナが多く立ち上がったアメリカや日本と違い、フランスは政府が現代文化を援助する大きな体制を作り上げたからだ。資本主義の米日が「民」ならば、社会主義よりのフランスは「官」、として国のあり方を対立させてみてもいいかもしれない。フランスの企業はその大多数が国が株主で「公社」であったから、もともと私企業のメセナが育つ土壌も当時は僅少だった。そうした国の経済のありかた同様、現代文化もフランスは政府が指揮を取って政治のうえで采配しようとし、1981年、フランス文化省を復活させた。
この文化省に、現代アートを支援する「造形芸術庁」が発足して現代芸術のメセナ的な仕事を始めることになるのである。その仕事は実に緊密で、まずは「現代アート」の定義からスタートする。国の言う現代アートとは、狭義の流行のアートのことを指すのではなく、現代生きて仕事をしている作家が生み出すアートすべてを指す。したがって、すべての生きて仕事をしているアーティストとそのアートを対象にしている。生きているかぎり芸術家は、他の職業者同様、税金を払わなければならず社会保障も受けなければならない。そうした社会の一員としての義務が果たせるように国がメセナ的役割をもってサポートし、実利的な仕事を創造してアーティストにリンクをする役割を自分に課した。(公団住宅の枠内で芸術家用アトリエ建設、作品買い上げと作品公庫の設置、芸術活動への援助金制度、カタログ援助、展覧会援助、コマーシャルギャラリーとは質の異なるアートの発表を目的とした展覧会施設開設と相互リンク、公共建造物に作品を入れる法律〈1%〉、情報センターなどの芸術活動に必要なネットワークと施設を設ける、等々。)
国の現代芸術政策は、なかば芸術家の生活に結びついた福祉的な性質を大きく含みつつ、芸術育成をめざした組織的な構造が徐々にまた全国レベルで作り上げられていったのだ。
さて、現代芸術のリーダーがフランスの「国」であることは、何を意味するだろうか。現代から将来に向けて創られる現代文化も、ここでは政治の一環となっているわけだから、文化再興の理論の底流には、フランスのプロテクショニズムが大いに働いている。
1960年に初めてできた文化省は、初の文化大臣アンドレ・マルローの省内スタッフによってその真意が明らかにされている。「将来、世界が望むようにフランスの精神的尊厳を回復し、文化の(世界における)指導的立場をとりもどすことを念頭に、(戦後退廃しておざなりにされ、すっかり他の国に追い越されてしまった)フランス文化を建て直す」ことを大目的とすると。そうして1981年の文化省の再興は、マルローの意思をそっくり引き継ぐ作業の実現から始まっていることを指摘しなくてはならないだろう。
外から来た文化人たちは私を含め、フランスから跳ね返されるような勢いをしばしば感ぜずにはいられなかったのは、それだけ当時、この国の現代文化政策がエネルギーを持っていたことを意味するのだと思う。このフランスの勢いのおかげで、文化という大きなテーマについて、フランスの長い間の論議を認識する機会を何度も得ることができた。また、自分がいるフランスからフランスの思想をもってはじき出されることで、自分はそれではいったいどの文化に向かって作家活動をしているのだろうか、という疑問につきまとわれるようになってしまっている。
フランスに来なければ、この国が長いあいだ熟成してきた「文化」への論理的アプローチのなかに浸って、文化とは何かという大命題に接する機会はおそらくそうそう無かっただろうから、フランスには大いに感謝をしているが、一方で、この国で活動を始めてすでに27年たったいまも、自分がどの文化に向かって制作を続けているのかという疑問は疑問のまま、将来もきっと解決することはないだろうと思っている。(S.H.)
21世紀の青天の霹靂はまだある。TVやラジオから英語が頻繁に聞こえ始めてきたことだ。
フランスのプロテクショニズムは、フランス全体の雇用のみならず、一般が接する大衆文化面においても顕著だった。たとえばフランスのテレビはアメリカや外国の番組を輸入して放送しているが、放送に際しては主題曲やあるいは主人公の名前までもフランス語に直して、フランスの番組のように仕立て上げるのが普通だった。日本で《奥様は魔女》と邦題したエリザベス・モンゴメリー主演の古いホーム・ドラマがあるが、夫役の「ダーリン」は「ジャン=ピエール」とフランス流に改名されている。サマンサもフランス発音のサマンタになり、タバサもタバタとなる。ラジオで聞くマイケル・ジャクソンは「ミカエル・ジャクソン」とディスク・ジョッキーが紹介した。こんなふうに、フランスのTVラジオといった一般のメディアがこぞってフランス語圏以外の固有名詞をのこらずフランス語にして発音していれば、一体どういうことになるか想像がつくだろうか。
そればかりではない。おそらくTVラジオ等のオーディオヴィジュエル機関に対し、政府は大きな制約を課していただろう。 コマーシャルは、バックグラウンド・ミュージックも含めすみからすみまでフランス製でなくてはならなかったはずだ。ラジオ番組に際しては、今日も、放送する音楽の40%はフランス製でなければならないと決められている。これに基づいて、ラジオ・ノスタルジーやスカイ・ロックといったチャンネルはいまだにフランスの曲と外国の曲を交互にかけている。一曲アメリカ(外国)の曲を流したあとは、フランスの曲を一曲流すということの繰り返しを、私がこの国に来て気がついたときから繰り返しているのである。こうした規則的な繰り返しを数十年にわたって聞くことは、いったい人間にどういった影響を及ぼすだろうか。1日に流す音楽のうちの50%から40%をフランスの音楽にしなくてはならないという毎日の義務によって露呈してしまうのは、フランスのポピュラー音楽の絶対量が少なすぎて、あっというまに間に時間を埋められなくなることだ。いきおい、ほとんど毎日どこかのチャンネルで同じ曲がかかってしまう。70年代80年代ポップを持ち出して埋めても間に合わない。けっきょく聴衆は、同じ曲のローテーションのなかに押し込められてしまう。今何がいったい新しい風潮なんだか、それも薄められてわからなくなってしまう。少なくとも私はそんな閉塞感に陥り、一時期ラジオを聴かなくなってしまった。
フランスがふるいにかける外国のニュースはすべてフランス流に手直しされて一般に流されてきた。それに拍車をかけるように、1993年に文化大臣になった保守のジャック・トゥーボンは着任早々、フランス語を守るためにフランスから英語を締め出すことを文化大臣として公言したことは、以前このブログに書いた。グローバル化でじわじわと侵入してきた英語に対する強硬策で、英語のものは固有名詞ですらすべてフランス語に直す、というものだった。しかしこのときの国民の反感は思った以上に大きかった。1993年あたりは、欧州連合が実質的に動き出したこともあり、もう一つの大きな世界へフランス国民の目が向き始めたところでもあったからだろう。大半の若者がこのとき文化大臣をけなしたものだ。長いあいだフランスの内側ばかりを考えてフランス化された情報の中で、フランスの外国人たちはどうしていたのだろうと思う。私などは、フランスの色の着いた情報をどうすれば(世界に)通じるような形に直すことができるかなどといったことに腐心したり、誰一人正確な発音をするフランス人に出会えず、結局、情報獲得を諦めたりしていたのだ。
おそらくこれもここ5、6年の傾向だろうと思う。欧州連合が成立して、ヨーロッパの人間が自由に連合国のあいだを行き来するようになったし、10年15年を経て、そうした国境を越えた空気の流通のなかに自然体でのぞむ新しい世代が社会を采配するようになったことが背景にあることが大きいかもしれない。 20世紀のフランスのガチガチのプロテクショニズムが解凍するように、今日TVから英語のコマーシャルが飛び出してくるようになった。アングロサクソンの音楽が普段何気なくTVから流れてくる。フランス人が英語の名前は英語発音をする。フランスの会社がスローガンに英語を利用する。フランスの製品名が英語になる。フランスの文化活動が英語で飾られる…。
どれもこれも、実は新しいできごとなのである。(S.H.)
2003年にアメリカ、ニュー・ヨークに行った。このとき、目から鱗が落ちるように再認識したことがある。それは、アメリカでは外国人が(といってもアメリカは外国人でつくられた国なのだが)、渡来一世ですらも自由に職業をえらび、あるものは管理職につきまたは教師になり、社会的ステータスをその人なりに持っておおらかに人生を謳歌していることだった。フィラデルフィアのペンシルバニア大学で学部の主任教授をしている日本人から話を聞き、クィーンズ・ミュージアムの専任アソシエイト・キュレーターとして仕事をしている日本人女性と出会い、ニュージャージーの大学の大学院を出たばかりで大学のギャラリーのディレクターに抜擢されたという日本女性に会って、彼らの自然さや満ち溢れた自信に出会った。2人の女性はともにアメリカに来て10年しか経っていないという。フランスではまったくありえないことを目の当たりにして驚嘆した。アメリカで見た「職業の選択の自由」。そんな大事な自由の一つを、フランスの20年の生活ですっかり忘れるほどになっていたことに、われながら呆れかえってしまったのである。
アメリカには永住権が存在することも職業の自由に大きな影響があるのかもしれない。
フランスは国にとって過客に過ぎないエトランジェに対し、フランス人だけが就ける職業という法律を制定することで、ある一線から常に外国人を締め出してきた。「そこいらへんで道路工事をしている外国人は、ひょっとしたら教師の資格を持っているかもしれないのに、フランスではあんな仕事しかできないでいるのよね」と、私のかかりつけの眼科の女医がもらしたことがあった。フランスでは、アメリカでよく聞く能力やその努力の証明となる「資格」という言葉をあまり聞かない。フランスは「権利」という法に照らした言葉のほうが好きだ。私は権利があるがあなたは権利がない、と言ってしまえる簡便さ。そんな国では、能力や努力の一切は別の世界のこととなるのである。(S.H.)
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