Shigeko Hirakawa

白 水社『ふらんす』 1999年4月号

平 川 滋子


《現代アートの必需品》 第一話 
EUROとUFO

 ほぼ約束の時刻に玄関のベルが鳴った。こちらはとうから作品を梱包して待機中である。作品の運送は近場であれば自分でやるか、遠い場合は運送屋がきてす るのだが、この日はブリュッセルからギャラリーの主人が自分でレンタルトラックを走らせて私の作品を取りにやってきた。ブリュッセルからパリ近郊の私のア トリエまで、ゆうに三百キロはあるだろう。
 扉が開くなり、
「もっと早く着くと思ったんだけど」
と言って手を差し出した。握手をする顔が、肉の薄い頬に深い縦の溝を入れてほころんだ。ニッと笑うと八重歯がこぼれて子供のようになる。若い画廊主は大股 でズカズカとアトリエに入ると、梱包された作品の山を見回した。

個展の作品は3か月も前にセレクション済みである。ギャラリーのスペースは予め分かっているから、頭を突き合わせて粗漏のないよう互いに話し合って決めた のだ。そのとき彼は、選び終わった作品の大きさを入念に書き留めて帰っていった。メモからちゃんと運送すべき容積を割り出し、それ相応のトラックを借りて パリまで三百キロの道程をやってきたらしい。運送屋を頼むよりトラックを借りたほうが経済的なのにちがいない。トラックも必要量を積載できる大きさであれ ば良いし、自分で運転すればもっと安上がりだ。開いた扉から見回したが、トラックの周りには誰もいるようすはない。一人で来たらしい。いかにも、必要最低 限が稼働すればよろしい、という態度である。経済家なのだ。
 そのまま、アトリエに入ってきたときのような大股で作品を箱型の荷台に積み込み始めた。トラックにどんどん作品が入り、最後の作品がピッチリ隙間もなく きれいに積み終わると、ロープをかける必要もなかった。ドアを閉めれば積載完了だ。ほっと、緊張を緩めたとたん、
「まだ一つ、大事な仕事が残っている」
と言って、相手は神妙な声で一枚の書類を取り出した。
「証明書。運送する荷物の内容は、フランステレビ局の番組放送用の大道具である」
というタイプ打ちの手紙。これが一体、何を意味するものなのか、すぐには呑み込めずにいると、彼は、
「ベルギー国境の税関用だ」
と畳みかけた。
「あっ」
重大事、である。フランス国外で芸術活動をする際の大きな足かせとなっていたのは国境の税関であった。絵画や彫刻の美術品は、自分の作品であってもフラン スから外国へ持ち込むときは輸入関税を払わねばならない。そればかりではない。申告手続きをするには、まず商工会議所に届け出て持ち出す作品の書類を作 り、国境で内容を照合させるなどの面倒な手続きを経なければならなかった。隣国で距離は目と鼻の先でも、国境の手続きはフランスから日本に運ぶのと同じよ うに七面倒だったのである。それが厭で、少々の展覧会はあきらめるのが普通だったのだ。その頭痛のするような手続きを、
「やる必要はない。国境での処理は慣れているから私に任せてくれ」
と言ってベルギーの画廊主は押し止めた。どうやらその方法というのが、作品をテレビ放送用の大道具に偽装することだったのだ。
 いまさら正式な手続きをしなおす時間などはない。
「みなまで言うな」
私は直ちに大道具の発送者になってサインをした。その書類を胸のポケットに仕舞い込むと、彼はそそくさと運転席に乗り込んだ。
「今日中にトラックを返さないと」
それはそうだ、トラックの貸借料が2日分にはね上がっては大変だ。
「それからこれを最低料金で投函しといて下さい。フランスのものはフランスで出したほうが安いんで。切手代は後で返済するから、領収書を忘れずに」
 窓越しに私に手渡した白い封筒の山は、画廊主が印刷してブリュッセルから運んできた私の個展の案内状であった。小さいところまでまことに計算が行き届い ている。経済家の証拠を実物で手渡されでもしたかのように、封筒はずっしり重かった。こうして、テレビ出演用の大道具になりすました作品を満載したトラッ クは、後ろめたさを残しながらユラユラと発車して、もと来た道を引っ返していった。
 作品の設置にブリュッセルに赴いたのは、それから数日後のことである。作品は大道具の顔をして無事に越境しおおせたらしく、私が梱包したままの状態で ギャラリーに置かれていた。自分がビザを取らずによその国に来たようで、どうにも居心地が悪い。一方、ギャラリストは、
「フランスの作家と仕事をするときはいつもこの手だ」
と平然としたものだ。確かに、ベルギーに入るときは輸入関税を支払わなければならないが、フランスへ帰る場合はそっくり払い戻されるのである。従って同じ 作品が国境を一往復するのであれば、納税うんぬんの問題ではなくなる。自分のやったことは、だから、ただ面倒な手続きの分をはしょったに過ぎないのだ、と いうのである。
「このくらいのことは大目に見てもらわなければ、たまったものじゃない。国にはもう十分過ぎるくらい払っているのだし」
ベルギーは重税国なのだそうだ。
「この国には必要もないのに大臣が二人ずついる。フランス語圏とフラマン語圏から一人ずつ出て国民の平衡をとらなければならないからだ。われわれは、この 2倍の人数の閣僚の給料を賄わなければならず、税金の無駄遣い競争の尻ぬぐいまでさせられている」
ブリュッセルはヨーロッパの首都になろうとしているのに、実際の町の荒廃の気分はその辺りからくるものなのか。
「だからベルギーはヨーロッパ一、UFOが出現する国なんだ」
「えっ?UFO?」
と、聞き返したが、彼は真剣な顔で話し続けている。
「二人の大臣がそれぞれ自己顕示しようとして、莫大な金を使って田舎の隅々の必要のないところまで街路灯を取りつけたのさ。それで、ベルギーはやたらと明 るくなった。ヨーロッパの上空で暗闇の中をひときわピカピカ光っているのは何だろうと思って、宇宙人が真っ先に近寄って確かめにくるというわけだ」
 二つの言語圏が政治の上で張り合うから、UFOが飛来するという。いつ話しにオチがつくのかと思ったら、まわりで聞いているアシスタントも彼の奥さんも 深刻に頷き合って、まるで冗談のかけらも気配はない。私はあわてて不覚のうすら笑いをかみ殺し、みんなと一緒に頷くことにした。

 数カ月後、再び作品はパリに戻ってきた。今度は馬体運送用のコンテナを安く手に入れたと言って、馬の代わりに作品を入れて車に連結してやって来た。まさ か作品が馬に化けられたわけはないから、やはり私がサインしたあの書類を携えて国境を越えたのだろう。  
 大事件が起きたのはそれから2年後である。ヨーロッパの国境が撤廃されたのだ。欧州統合が前進したのである。税官吏のいなくなった空っぽの税関所の脇を 止まりもせずに、今では車がスースーと国境を越えていく。あの面倒な手続きも消滅して、作品を安心して送ることもできようになった。そして今年、さらに大 股の前進。今度はユーロが誕生した。もう交換所にも銀行にも止まらずに済むし、面倒な計算も不要になる。しかし、経済の手続きがいくら簡便になったからと いって、すべての問題が片づくわけはない。貨幣が同じでも始終対立に悩む国もある。やっぱりベルギー人は、
「相変わらずUFOはやって来る」
と言って不満を漏らし続けるのではなかろうか。
ひらかわ しげこ