Shigeko Hirakawa


『パリへ、洋画家たち百年の夢』  展覧会カタログ 
(東京藝術大学大学美術館 出版 2007)
も うひとつの世界 ー知られざるフランスで生きているものー

創造活動は自己の精神と肉体のメタボリ ズムをかたちにし続ける作業である。精神も肉体も自己を包む世界とのエネルギー交換で代謝していくものであるから、世界が変われば表現のあり方も変化をす る。

ここに会する芸術家たちは、人生の中途 から慣れ親しんだ世界を出て フランスに飛び込み、自己を取り巻く世界を一変した。いつ動き出すかわからない見知らぬ生きものとでもいるような、いっときも安心のならぬ異質の環境を隔 てるのは、自己の皮膚一枚でしかない。恒常の意識の緊張の中で、フランスと自己の世界のせめぎあいを見つめ、異文化の壁に幾度もぶつかりまた跳ね返されな がら、われわれは日本人であることを執拗に自覚させられて生きている。

フランスは近年、政府がイニシアチブを 採って現代芸術文化を支援す る、政府メセナの一模範として知られるようになった。大勢から影を潜めていたフランスのイメージからは、1981年に樹立したミッテラン社会党政府が興し た画期的なこの文化改革は、世界のアートシーンにおいてひとつの晴天の霹靂のようなものであったろうと想像する。

確かに、フランスという国の真の姿を日 本はあまり知らない。世界初 のプロレタリア政権を確立したパリコミューンの時代から培われてきた社会主義思想は、実際生活の中に深く浸透したもののようで、あらゆる方面に網をかける ように綿密な社会構造を作り上げた。公社の民営化が進んだ今日に至っても、就業率の20%を公務員が占めるというこの国は、元来、政府が政治経済文化を統 制し、大企業の大半は公営ゆえに自国経済保護を優先して外資参入や輸入内容を極度に制限し、自由競争を規制した時代が長く続いた。したがって、大方の国民 の生活は慎ましく、アメリカや日本が代表するハイテク文明とは乖離した社会でもあった。フランスが頑迷なほどに閉鎖的で側からは判りにくい国であったの も、日本がこういったフランスの現実に疎いのも、経済外交の規制で日本参入の間口が小さかったからというだけではなく、相互の国を作る根本理念の背理が根 底の要因にあったものと思われる。

外へばかりではなく、フランスは内に向 かっても文化と文明のあいだ に距離を作り続けた。代表的なものは、クオータと呼ばれる割合規制であろう。日常生活に欠かせないラジオを例に取ると、流される曲の40%はフランス製で なければならない規則をもうけており、フランスの音楽製品が国民に触れる機会を数量的に確保している。局によってはこれを厳守して、フランスの曲と外国の 曲を年中きちんと交互にかける局もある。クオータ制度からくる割合の感覚はさまざまな分野に見うけられるが、これは設定割合以外のものの参入へ歯止めをか け、さらにその中で起きることの予想される自由競争を一切遠ざけるものでもある。このようにあくまでフランスのアイデンティティーが存続するように配慮す るのは、外国と隣接し移民を大量に抱える国の自衛意識にほかならないだろう。

外からきた者にとってはひどく窮屈な、 しかし、国民の生活のすみずみに秩序をもたらそうというフランスを包む思想構造こそが、文化も政治のうえで論議し政策化して建て直そうという意図を生んだ 重要な基盤であったことをあらためて明解にすべきであろう。
フランスが世界の芸術文化をリードした のが遠い過去のこととなり、嘆息すべき芸術の頽廃と低迷ぶりを省みて、国が一大奮起をするのは1950年代中盤のことである。

過去に一度とならず文化の指導的立場に いた国である。文化復興の中 枢は、新しいものを生み出す現代文化の振興にあることをよく意識して、アンドレ・マルローがこう言明した。「現状の文化とは、引き継がれていくものが移り 変わっていく様相そのもの(生きているもの)を指している。ゆえに、固定概念(死んだもの)の秩序を知ることにばかりとらわれるものは、文化を理解するこ とはできない」。逐次変化して醸成を繰り返す現代文化を「生きているもの」とし、一方、全体的教育になくてはならない固まった普遍妥当の科学的定義を「死 んだもの」と形容した。マルローの「生きたもの」と「死んだもの」というこの激烈な対比は、文化を教育省から分けて省として独立させるためのいわば表現の 道具の一つではあったが、同時にフランスの現代そして将来の文化を建て直す大本となる「生きた」現代文化を、戦後初めて明解に政治上で定義し志向したもの になるのである。
「世界が望むようにフランスの精神的尊 厳を回復し、文化の指導的立 場を取り戻す」ことを究極の大目的に掲げ、これを国家事業に持ち込むための論争がさかんに行われた末、1960年、戦後初の文化省が設立。アンドレ・マル ローが文化大臣に任官する。新省建設への助走期間からマルロー在省の約15年間にわたる文化への記録が、こんにちの文化政策思想の基盤となったことはいう までもない。

1982年、「生きた」文化、「生き た」芸術は、それを担う「生き た」芸術家を支えることにある、と提言した飛躍的な政策が大規模に打ち出された。ミッテラン社会党政権の下で文化大臣に任官したジャック・ラングは、「生 きた」芸術家のための新庁、造形芸術庁(Délégation aux Arts Plastiques/ DAP)を開設する。死んだ芸術家の作品は美術館が管理し、活動し続ける精神と肉体を持つ「生きて」いる芸術家は造形芸術庁が担当するという配分である。 通称、政府メセナと呼ばれる芸術家援助体制は、こうして大々的に長期計画ではっきりとした構造を持ってスタートした。

将来のアーティストを養成する芸術教育 機関の見直しにはじまり、芸 術家が作品を生み出すのに必要不可欠な空間であるアトリエの建設(公団住宅枠でのアトリエおよび芸術家用住宅の建設)、地域ごとに作品買い上げ施設敷設 (Fonds Régional d’Art Contemporain/ FRAC)、文化活動支援組織の設置(Direction Régionale des Affaires Culturelles / DRAC)、芸術活動の物理的援助(カタログ作成支援、制作支援 / Soutien à la création、アーティスト・イン・レジデンスなど)、芸術家の経済的負担軽減のシステム化(企画者側が芸術家の必要経費を負担)、活動の間口拡大 (現代アートセンター建設とその活動援助、<1%>)など。芸術家の生活と活動を、その養成から普及まで多角的に考慮し、芸術活動と社会との関連付けに専 心して、必要を体系化したかたちである。

芸術家のアトリエ建設は、文化省が担当 する建設のみならず、パリ市 を含め、町によっては率先して芸術家のアトリエを建造し続けているところが多くある。また、作品買い上げ施設は、施設創設から四半世紀を過ぎた今も、県レ ベル、町レベルの買い上げ施設も増えて発展を続けている。これらは、公共建造物が建設されるたびに建設費用の1%を芸術作品設置にあてる制度である <1%>とともに、芸術作品の収蔵を増やし、芸術作品のある建物を増やすという目的のみならず、芸術家の税制ステータスを助ける意味が含まれていることに も注目しなければならない。作品を定期的に購買することによって国はその歴史的財産を間断なく現代に延長し続け、一方で作品と引き換えの収入は生きた芸術 家の生活を助け、税金を納めるのを助けるというお金の循環も目論まれている。

活動間口の拡大について文化省は、それ まで画廊や画商に委ねられて いた活動の形態だけでは、マーケットにのりにくい実験作品が埋もれてしまいがちなのに注目して、すでにあった施設やあるいは使われていない建物などを改造 し、芸術家の新しい研究活動および発表の場としてネットワーク化した。活動サーキットの種類を増やせば、芸術作品のあり方もより多様化するというわけであ る。今日、政府財政の地方分割が進んでアートを推進する県や市町村も増えている。公共団体のなかには、現代アートセンターを凌ぐ大きくかつアヴァンギャル ドな展覧会を主催するものが多くでてきていることをつけ加えておきたい。
フランス現代文化政策に見るスローガン は、しこうして「多様性」で ある。また、これら政策に当てはまる芸術家は、生きた芸術家のすべてである。もちろん財政には限りがありすべてにいきわたることは難しいが、アートの流行 如何にかかわらず、作家個々の芸術の特殊性を重視し、あらゆる層の芸術家を支援することを公言した。国に多様な芸術家が数多くいることで、フランスの文化 の厚みが増すのである。流行で他の動きが顧みられなくなるとすべてが一辺倒になりがちな世界の動きの中では、ひるがえって、多様で厚みを持った文化だけが 独自性を発揮して次の世代を生き抜いていくことができるのである。

旧弊な社会構造を緩め、世界の激変を受 け入れなければならない日が いつかやってくることを予感して、フランスはすでに80年代からもうひとつの構造を欧州統合に求めて奔走している。文化思想の変革はその只中、1989年 にポンピドー・センター国立近代美術館が開催した展覧会、『大地の魔術師』展に表れた。アジア、アフリカ、オセアニア等、他大陸、他民族のアートを国立近 代美術館が現代アートとして取り上げることにより、旧来の文化の欧米中心主義に問いを投げかけ、アートの不平等を解消しようというものであった。背景に、 フランスは当時、旧被植民地国との関係を是正していくための外交政策変換に奔走していたという事情がある。過去の国勢の優劣が決めたアートの優劣の伝統 を、殖民と被殖民の関係を解消するように解消しようとした。これが世界芸術の方向転換の端緒のひとつとなって、マイノリティーの文化を取り上げる動きが世 界中を走り、はては文化の中心が欧米の壁を破って世界中に散在するにいたった。この展覧会が、今日世界の芸術のグローバリゼーションの契機ともいうべきも のになったことは周知の事実である。

自己を含めた欧米文化の伝統的主導権 に、フランスはこのような形で 終止符を打って見せた。弱いものを引き上げるのは、強いものが場所を作って初めてできる事業であることをその政治が心得ていることによる。21世紀に入っ て欧州統合で外国との流通が盛んになり、デジタル時代が拍車をかけて、フランスの変化は実に目覚しい。しかし、ボーダレス社会が進んで世界の文化文明が入 り乱れ、ない交ぜになっていく世の中の表象は、文化のグローバリゼーションとは区別されるべきものである。この国は80年代末の思想の延長線上にあって、 第三世界の文化に欧米と平等な価値を認めるために一歩進んだ行動を起こすことを決めた。2006年、これまで制作者の名も知れぬ民俗工芸品として扱われて いたオブジェを改めて芸術作品と呼びなおし、このために新築されたケ・ブランリー美術館へ収蔵しなおして芸術と認め、文化のグローバリゼーションへの志向 の証を標したのである。

われわれの中には、フランスの現代芸術 政策の恩恵にあずかって活動 する方々も多い。得がたい経験と対話のうちに殻を割って融合の糸口を見いだし、独自の活動を紡ぎ続けてきた各人の表現は、四角四面のフランスという国より は、フランスが目指す芸術文化の「多様性」のうちに居場所を広げていったものということができるであろう。現在活躍を続ける在仏東京藝術大学出身者の世代 の幅は、フランスが現代文化をかたちづくった戦後の歴史に合致する年月である。したがってわれわれはその空気を臓腑まで吸った生き証人でもある。弛まない 積み重ねでできた一枚岩の文化のうえにいる国民には、「アートがない社会など考えられない」と言う人が多い。このもう一つの世界との対話のたびに邂逅する 文化の堅い手ごたえに、仕事への牽引力を見出すものも少なくなかったのではないか。

フランスで辿った道程と、不在にした日 本のあいだには、白い取りと めのない空間が立ちふさがっている。この不確かな空間へ掛け渡すものがあるとすれば、それは生きた証拠のわれわれの表現でしかありえないだろう。わずかな がらも各人の作品が歴史の流れの中に組み立てられて紹介される貴重な機会を得られたのは真の喜びである。この展覧会の企画にご尽力された方々には、出品者 のひとりとして心から感謝の意を表したい。



2007年2月1日、パリにて
平川 滋子